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紀里谷和明監督のこと

 

 2015年の映画作品、「ラスト・ナイツ」(GAGA)の監督、紀里谷和明さんが引退を表明したそうで、誠に残念。

 日本の映像文化の損失というくらいのイメージ。
 

 

 「ラスト・ナイツ」は多人種混合架空世界のめずらしい忠臣蔵で、おもしろかった。

 この映画は、日本のどの会社も配給してくれないってんで、ご自分でおやりになったご苦労がある。

 全国行脚みたいにしてチラシを配ったりして各地を回ってもいた。
 結果、興行的に成功したとは言えないかんじの印象。

 そういうこともあってか、なんだか、ずっと恵まれてなかった(いじめられてる)ようなイメージで、そのまま引退ということになってしまって、はなはだお気の毒な感じがする。
 

 

 紀里谷監督には帰国子女独特のズレがあったように思う。

 お会いしてお話させていただいたとき、「そのままやったんじゃつまらない」という価値観でらっしゃったが、紀里谷監督の世界観として観るのは楽しいのだが、『CASSHERN』とか『忠臣蔵』というのは、すでに人気コンテンツなので、いじり方をそうとう気をつけなきゃいけなかったと思う。

 制作する側が、同調しない自己肯定感を持ってることは、リメイクには命取りだと思うのだ。
 

 

 商業映画監督デビュー作品『CASSHERN』を例に上げると、人気アニメ作品を実写化するのに、敵側のデザイン(人間が演じるブライキング・ボスなど)や、設定をまったく一新してしまうなど、堂々と禁じ手を使っている。

 ファンとしては、それはもう心の底からガッカリした。

 確固たる独特の世界観がある人にリメイクとか、無理なのである。
 (その点、「ラスト・ナイツ」は良いアレンジだったように思うが)
 

 

 「スターウォーズ」ファンだったJJエイブラムスが「スター・トレック(2009)」を成功し得たのは稀で(←たぶん誰でも愛せるカサノバタイプなのだろう)、リメイクを作る場合は庵野秀明✕樋口真嗣監督みたいに、賛否両論になるくらい、途方もない強い「愛」が必要なのだと思う。

 

 「定番」を理解しないといけない、泥臭く、野暮ったい作業かと存じます。

 

 

 


 こうした「失敗」は、近年「忠臣蔵」の映画製作にも見受けられる。
 興行的なことより、「忠臣蔵」を映像でやろうというクリエーターの姿勢のハナシ。
 「忠臣蔵」「義士伝」は、講談や歌舞伎の正解は先達から受け継いで、時代に合わせてアレンジし、どんどん面白くしていっていたのに、いまのクリエーターはそういう経緯をピョ〜ンと飛び越えて、赤穂事件をダイレクトにほじくり返そうとしている。
 先達の忠臣蔵のおもしろ要素は、いま漫画やドラマでウケてるエッセンスと合致するので、要は作り方次第だとあたしは思ってる。
 だが、昭和時代のマンネリと、しばらく制作されないブランクで、現場はなにが面白かったんだかすっかりわからなくなってしまったようだ。

 
 閑話休題
 紀里谷監督はほんとうに腕っこきなので、それこそネットフリックスみたいなフィールドで良い作品を生んでくれそうな期待をしてただけに、メガホンをおかれてしまうのは本当に惜しい。
 
 とはいえ、宮崎駿監督の例もあるんで、若いし、カムバックの期待はしているのだが。
 
 ひとまず、おつかれ様でした。
 そして、ありがとうございました!
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ドラマの忠臣蔵が面白くなくなった理由のひとつ

 

 

ライムスター宇多丸さんの「アフター6ジャンクション」の新作ゴジラ映画評を聴いてて

「ゴジラ-1.0」は7年前の「シン・ゴジラ」で人間ドラマをキレイに削除したのを受けて(や、受けたかどうかは要確認)、山崎監督は「それじゃあ」てんで、ならではの浪花節をうなったという…宇多丸さんそうは言ってないけど、おおむねそういうようなのを聴いたとき
 
「ああ、そう言えば忠臣蔵も」
 
と思った。

 
かつて仲代達矢版を成功させたプロデューサー能村庸一さんがイベント(※註釈01)で、脚本の古田求先生の談話として
「先にTBSのたけし版でアレ(視点をまったく変えた傑作)をやられちゃったので、ガッツリ定番でやろう」
セリフはまんまではないが、当時の古田先生の意気込み&コンセプトをそう紹介してくれた。
それなんですね。
あれだけ大勢が長い年月こすってるわけだから、クリエーターは
「じぶんならこうする!」
という意気込みが大切。
でないと「ゴジラ対メガロ」になっちゃうわけです。
(アレも一周回って最近は愛されてるけど)
 

日本の映画会社が元気だったころこぞって「忠臣蔵」(制作費がめちゃくちゃかかる)で、「我社はこうだぜ!」と、会社の力自慢をしたように、一作ごとにいちいちこだわりがないと愛される作品って生まれないんだろうなあ。

 

 

 

 

 



でもなー!

1994年に市川崑監督と深作欣二監督と舛田利雄監督というベテランたちが、こだわった忠臣蔵を作って全部コケてしまっているから、意気込みもさることながら…
飽きちゃったんだろうなあ〜〜!!💦💦

 

忠臣蔵は駄作傑作を含めて映画以外に芝居も古典もコントも、エンターテインメント史上、稀なこすられ方をしたからなあ…。

 

ゴジラシリーズや仮面ライダーシリーズ、ウルトラマンシリーズの栄枯盛衰から、人気復活の秘密を探れるかも??

 

 

 

註釈01…2009年12月「親しく学ぼう 忠臣蔵」


<附言>
↑コレを書くキッカケのひとつではあったものの、ディスってるみたいで書かなかったことを、やっぱ追記。
具体的なタイトルを言わなきゃいいやと。
いえね
「製作することになったんで、脚本(または監督)をたのまれたんで、やりましたわ」
という駄作も、よくあるんですよね。
仕事だからやんなきゃしょうがないでしょう。だからメガホンを取りました。みたいな。
ちょうど上のブログ書いたころCSで「ちょっとアレだぞ」という過去作が流れてたんです。

中には「たのまれしごと」とはいえ、それでもそれなりに一生懸命やってらっしゃるのが伝わってくる作品はあるんですが、それでも「愛のない作品」って、わかっちゃうんですよね。
あたしのレビューのひとつ星作品が主にそれですが、1作品くらいを除いてたいがいネット上での評判もイマイチだったりするもんです。

<附附言>
で、
愛の形に正解はない。
たとえば「ゴジラ-1.0」はヲタが見るといろいろ言いたくなることがある。
山崎監督のゴジラ愛やこだわりは独特で、変な音楽の使い方をシレッとやっちゃうんだけど、ヲタではない一般客にはどうでもいいことでして、その作品全体のクオリティがハートにぶっ刺さるわけで、まぁ。ソレでいいじゃねえかと。
繰り返しになりますが「俺ならこうする」自体が大事なことなのでありますなあ。。
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いま作っても無理説

(長いっす!)


いま新作を作るなら!?というハナシ。
(とはいえ、あたりまえじゃん!ていう内容でもあります)

 
 いま、わたしを含めて正調忠臣蔵の新作制作を心から待ち望んでる人というのは、もともと長い間、忠臣蔵が好きな人がほとんどだと思う。
 忠臣蔵の存在を意識してからこっち、映画や演芸、歌舞伎など、引きも切らないリリースで無意識に何度か内容をさらって「好き」を触媒していったクチだ。
 
 で、最初のキッカケが映画館で見た長谷川一夫版であれ、テレビの里見浩太朗版であれ、リリースされたそのバックグラウンドは「昭和」である。
 つまり、いまでは通用しないインモラルやデリカシーの無さが通用していた時代(要出典)=いまとは違う時代だ。
 その昭和時代は、忠臣蔵の世界線の中で描かれる常識や価値観が素直に受け入れられるコンディションだった。
 嫌いなやつを「死ねばいい」と思ったらおおやけにクチにしても咎められない時代だったのである。
 そして言うまでもなくお茶の間では「時代劇」がおなじみで、忠臣蔵に素直になれる「いろんな」免疫があった。
 
 いまやいのちご大切の時代。昨日も「可哀想だから蚊を殺さないで」なんて書き込みがSNSで拡散されていたのを見かけた。温血動物は決して食べない主義なんて今や珍しくない。いわば民間の生類憐れみの時代。
 忠臣蔵の国民的な人気が「時代の条件」の上で成り立っていたのだとすれば、かつてのノリそのままのサイズで令和の現代社会に「正調モノ」を持ってこようとしても、ご時世的にズレがあるのは土台からして無理筋くさい。
 
 とはいえ、忠臣蔵は江戸時代から昭和まで時代をとび越えて、実際に長い間人気のあった(要出典)コンテンツなのだから、ファンとしてはあらがいたくもなる。令和でもイケるはずだ!と。
 
 しかしである!明治維新や敗戦でもまっすぐだった日本人の価値観は、バブル景気によって見事に捻じ曲げられた…とわたしは思う。
 実際、平成以降ガクンと人気が落ちている。
 日本開闢以来珍しい(要出典)?「ガマンしなくていい多様化の時代」の到来は、我慢のデパート忠臣蔵のドラマの意義を根底から揺るがす。
 実際に、バブル期に大井武蔵野館(当時人気の名画座)の館長はキネマ旬報の誌上インタビューで「忠臣蔵で客が呼べなくなった」と言ってるし、バブル崩壊後(’94年)に、東宝と松竹とTBSが腕っこきの映画監督で忠臣蔵をやってどれも当たらなかった。(特にTBSのは面白かったのに)
 (※なぜバブルでダメになったかは長くなるので端折るが、要はC調ウィルス(造語)の蔓延である。C調が正調をダメにした)

 バブル以降、あんなに江戸時代から日本人みんなの心に響いていた正調「忠臣蔵」の新作がいまリリースされないことや、なにか新作があったとしても斜め読みだったり、かつそれらがパッとしないことにヤキモキし、ことあるごとにあたしはギャーギャー熱を吹きつづけてまいりました。
 世間では忠臣蔵はやれオワコンだ、若い人にウケないだ、よく言われる中で、なぜそう堂々と主張ができたかと言えば、いま(忠臣蔵が廃れたと感じる平成以降)、メディアで流れてる流行りものの中には、忠臣蔵のエッセンスが入ってる事が多いと感じていたからだ。
 ふりかえれば、たとえばかつてのAKB48の出世話にも半沢直樹にも、ワンピースにもソレが見て取れる。
「だから忠臣蔵は絶対にウケる!」
 というのが平成時代の持論だった。

 が、いま、ちょっと思い直している。
 
 じつは先日(令和5年10月)、パートナーの森井ユカにわたしの大好きな東宝作品「忠臣蔵 花の巻雪の巻」(’62)を見てもらったときのこと、いっしょに見ていて私はちょっと内容に殺伐としたものを感じた。
 100回は見ている本作だが…珍しい感覚…。
 映画やお芝居に誰か(特にノンケ)を誘うと、一緒に見ているヒトが「どう思うだろう」を意識してしまう。自分のおすすめの場合はなおさらだ。
 ノンケのユカさんと忠臣蔵を見ていたら、エンパシーによるものなのかなにかわからないが、ラストシーンでヨボヨボの市川中車(吉良上野介)が炭小屋から引きずり出されたときに、このヒトがこれから討たれるのか…と思うとじゃっかんいままでと違う違和感を感じたのだ。
 このじいさんを殺せば済むってことなのか?こんな脆弱なラスボスってどうなんだ??
 いろんな「?」だ。
(ちなみにユカさんはわたしと若い頃に浅草東宝のオールナイトへよく通った、東宝ファンである)
 
 見終わってふたりで話をしてみると、ユカさんから聴けた感想がいちいち新鮮だった。
 すなわち
 まずこの作品は、笑ってヘラヘラ見ていられる作品とも違うので(東宝作品は他社に比べておかしみが散りばめられて娯楽的要素がふんだんだがそれでも、である)、とにかく「ちゃんと見なくちゃ」という緊張感が徹頭徹尾にある。
 そこで語られるのは命がけで信念を貫き通す人たちの生きざまだ。
 それを理解するには江戸時代の武士の価値観や哲学をいちいち予想してそれを受け入れなくてはいけない。
 そして、ランニングタイムが長い。
 つまり、よい作品であることはわかるが出演者全員(またコレが多いときてる)がむずかしい顔をして走り抜けるこの物語は「なかなかくたびれる」というようなことを概略言っていた(ニュアンスはあたしがここで要約してるフィルターでじゃっかん違っちゃってるかもだが)。

 くり返しになりますが、古参の忠臣蔵好き(赤穂事件の研究者さんではなく、ここはあくまでお茶の間のハナシ)は、昭和をバックグラウンドに色んな新作のリリースとともに生きているので、いつの間にか忠臣蔵世界を徐々に理解できていたのではないか。
 そこには気に入った作品もあれば苦言を呈したくなる作品もあった。無意識に「見比べ」をして「アレよりコレがいいねえ」と楽しめるストックが脳内にたまっていった。
 無学なわたしの母親でさえ、そうしてこれまで忠臣蔵を認識しているのである。
 ロングセラーの「忠臣蔵」の楽しみ方の重要な要素のひとつは「見比べ」なのだ。
 だから後輩諸君やユカさんに「花の巻雪の巻」だけ急に一作品「見て!」「どう思う?」といって押し付けても、いきなり路上教習みたいにハードルが高いのかもしれない。
 マキノ雅弘監督に言わせれば「決定版はない」というんだから(あたしもそう思う)、どの映画でこれを試しても似たような結果になると思う。(NETの「大忠臣蔵」('71 三船敏郎)ならイケるかなぁ。でも連ドラだからランニングタイムが2000時間以上じゃお手軽ではない。)

 


 ユカさんの意見を聴いたら、脳内に、これまでわたしが言われた(&講演やテレビで見た)過去のいろんな人の意見が蘇ってきて、彼らの言いたいことが雲が晴れたようにリアルにキャッチできた気がした。
「忠臣蔵はまじめすぎる」と言っていたライターさん。
「もはや終身雇用の時代ではないですからねえ」と言ってた学者。
「松の廊下の動機が希薄」と言っていた紀里谷和明監督。
「どんな理由でも人殺しは良くないと思う」と言っていた朝比奈彩さん。
「企画会議に「忠臣蔵」はあがるけどタイミングが…」と言っていたNHKさん。
「最後、おじいさんがかわいそう過ぎると若いスタッフに言われた」と言ってた能村庸一プロデューサー。
 聴いた当座は腑に落ちなかったアレコレが、今ならその全部がうっすらリアルに理解できる気がしたのだ。
 それほど自分のマインドが最近の風潮にあってきてる気がする。(学校で非常勤なんてやってると毎年あたらしい若い衆と知り合うので、歩調を合わせてるうちにいいかげんに自分の中で昭和が遠くなっていくのか?)

 ともかく、
 忠臣蔵の根底に流れるものに日本人のDNA琴線に触れるものがあっても、元禄時代を舞台にした時代劇のビジュアルでパッケージをととのえて大衆に提供するにはもう、大胆な脚色でもないかぎりダイレクトには通用しない時代になっちゃっているのである。
 これは特別なことを言ってるのではなく、そもそも歌舞伎も講談も、先人の作品をマイナーチェンジしながら、または大胆に壊しながら継承してきた。だからまた大胆で有益なアレンジが必要だと思うのであります。(斜め読みやパロディではなく、あくまで妥当なアレンジです)

 新アレンジはたとえば、パワハラだけでなく、吉良と赤穂浅野の深い因縁(新説?)が必要かと。
「死ねばいい」と言っちゃいけない時代に「死ねばいい」と観客に思わせるジジイの表現はむずかしいし、イベント中のパワハラぐらいで「あのジジイ殺していい」というテンションには、なかなか及ばない民度になっちゃったから。日本人は。
 そうか…
 だからChuSinGura46+1」('13)は吉良にバケモノを憑依させたのか。だから「タイムスリップ!堀部安兵衛」('14)は吉良を逃したのか。だから「決算!忠臣蔵」('19)では討ち入りシーンを描かなかったのか…。(以上いずれもアレンジではなく改編モノ)
 作品の良し悪しはともかく、最近の作品はそこんところを留意していたのだなあ。
 

 新作で、死んでもかまわないと思わせるジジイの表現や、肯定的な復讐殺人を令和以降にリファインして持ってくるには、&真正面から正調モノをやった上で観客に共感させるには、その「殺伐」とした世界観を雄弁に、かつ強引に作品に落とし込んで観客に提示するクリエーターの腕前が必要があり、そうした作業はなみたいていな脚本家や監督では無理。

 じつは今から12年ほど前のブログに、「脚本三谷幸喜で監督中島哲也で忠臣蔵やってもらいたい」と言ったが、やっぱりこのご両所への思いは未だに熱い。
 不幸のどん底の人生をバラ色の画面で彩ることのできる中島監督。歴史も古典芸能も精通している三谷さん。
 このお二方とも、キャスティングと来たら絶妙以外の何物でもなく、彼らが忠臣蔵をやるとなったらどの登場人物を誰に配役するのか楽しみで仕方がない。
 ただ、中島監督は脚本もやる人だし、三谷先生も監督やる人だし、たぶんこのタッグは相容れないかも…と思うから、それぞれ各自が1本ずつ作ってくれればいいなと(ナニサマだ)、そこんところだけは、いまはちょっと違う意見。


 で、最後に申し上げますと…
 忠臣蔵好きとノンケの温度差はどこに象徴されるかといえば、「討ち入りはテロだ」と言われたときの古参の目くじらの立て方だ。
 自分の大好きなものをダイっきらいなものに例えられることほど腹が立つことはないが、感情的なことはともかく、「テロだ」と言われる風潮や時代を読み取り、そう言ってる人の気持ちやコンセプトに同調できないようでは、たぶんなにもリサーチできないし、「またブームにしたい」という気持ちは叶わないと思う。


 あと
 時代にあったアレンジが必要、みたいな話をしたが、いっぽうでいま「荒川十太夫」や「俵星玄蕃」が歌舞伎で講談とコラボをして古典の良さをそのまま伝えている公演があるが、こういうのも現代に無難なリリースの仕方かと思った。
 忠臣蔵や義士伝の加工された登場人物は、財産であり、いわばその人物たちの活躍こそが忠臣蔵の魅力であるのは間違いない。
 歌舞伎と講談は紛れもなく江戸時代から忠臣蔵義士伝の人気を伝えてきた立役者。
 それが、人気キャラのスピンオフをコツコツと上演し続けていくのは、明るい将来につながると思っております。
 そう。
 たぶん現世でのもっとも受け入れてもらいやすい新作の構成は、同床異夢のキャラそれぞれのイデオロギーを描いて、最終的にアベンジャーズみたいに「勢ぞろい」して討ち入りにマッシュアップされていくのがベストだと思います。(「峠の群像」はソレに近かったかと)。
…という結論。


 現実は現実として、新作(正調モノ)を待ち望む気持ちに変わりはありません!


<附言>
 忠臣蔵物語の、なにをもって感動に至ったのか、その人の趣味によってオススメも変わる。
 よく言われる「忠義」みたいなことで言うと、上記の東宝作品より別の作品がいいかも。
 忠臣蔵は各時代にいろんな視点で描かれてるので、東宝でハマらなかった人が東映でハマる可能性がおおいにある。
 結局、未だに決定版がないのだから、見比べないと埒が明かない。


<附附言>
 『ゴジラ-1.0』見ましたが、上記おふたかたとはまたちがうやさしいテイストの山崎貴監督の説得力も、いまの大衆にピッタンコのような!?
 その「力技」は絶大で、戦後風景をMP抜きで、いわんや総司令部まで放射能火炎で吹き飛ばしてもGHQが動かない(マッカーサーが住んでるのに!?)という前代未聞の設定も「アリ」にして、その上で傑作の評価を国内外から受けているんだから、うってつけかと存じました。

<附附附言>
 春日太一先生に言わせりゃ、忠臣蔵世界の武士の価値観なんぞは'50年代にすでにみんなツッコミどころとして気づいてた(講演ではマキノ光雄の談話を紹介してらした)。それを素晴らしいオールスターやセットや腕っこきの監督が名作にしてリリースしてた。各社アニバーサリーに会社の力や勢いを主張するかのように作ってきた。
 忠臣蔵が作られなくなったのは、内容のつっこみどころや視聴者&鑑賞者のセンスではなく、会社が作れなくなった…というのがご説。
 これも、ご尤もかと存じました。
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翻訳47RONIN(19)「刃傷!松の廊下」


   無謀な不定期連載
洋書「47RONIN STORY」のおおざっぱな和訳

 

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遂に刃傷!…



「花は桜木 人は武士」
でわ第19弾、どうぞ!

<※言うまでもなく、フィクションです!>
 

 

+++++++++++++++++++++

その笑顔が功を奏し、カジカワは小走りに近づいて、やや大げさにお辞儀をしながら
「浅野様」
彼は舌足らずな言葉で言った。
「タイムスケジュールに変更があったと聞き及びました。それを将軍様の母君にお伝えしたいので、詳細をお教え願えくださいませ。お手間でございましょうが...」と、不安げな口調で締めくくった。

浅野公は、唯一答えられる人物として思わず吉良に目をやったが、明らかにその質問を聞いていたであろうに、ただ黒く微笑み返してきたことに落胆した。
「その鈍物にお聴きなさる価値はなにもござらん」
吉良は大声で堂々とした態度で言った。
「儀式についての質問なら、それがしか伊達公、あるいは使用人の誰かにお尋ねくだされ。浅野様よりはよほど役に立ちましょう。」

カジカワは顔を真赤にし大きく目を見開いた。曖昧に頭を下げ、居心地悪そうにその場に立ち尽くした。
浅野公は青ざめ、まるで石になったかのようにカラダが硬直した。
カジカワは突然の不安を感じると集会所の障子に向かって立ち去った。
もうこれ以上に浅野公に恥をかかせまいと、今度は部屋にいた廷臣に声をかけたのだ。
吉良が部屋を威風凜然と横切って浅野公の前で立ち止まり、低い声で浅野公で話しかけるのが見える。
なにやら妻のことを言っているようだった。
それを聴いてカジカワは耳を疑った。

「苦労性なお人よのう。」
吉良はほのめかすように言った
「そんなに金を使うのがいやなら、みどもの美食の好みを満たす指南をいたそうか。
 尊公には、おっとりとした丸い月のようなお顔の、可愛らしい奥方がいると聴きおよんでおりますが…」

浅野公はもう我慢の限界だった。
顔から血の気が引き、鼓動が激しくなり、猛烈に剣を引き抜いた。
吉良の手は本能的に自分の剣に手がかかったが、剣を抜くつもりはなかった。
だがこれが悲劇的な誤算となった。
浅野公はこれを挑戦と受け止め、高く振り上げた刃が光り、盲目の怒りで吉良の肩に斬りつけた。
吉良はよろめいて倒れた。





浅野公は再び腕を振り上げようとしたが、駆け寄ってきた伊達や他の人々が彼を制止した。
一瞬の静寂が訪れたが、カジカワが大きく息を飲んで急いで奥の部屋に逃げ込んだときにそれは破られた。
浅野殿は戦慄しながら吉良の無動の姿を見下ろし、そして自分から剣を取り上げる男たちを震えながら見ていた。

ふたたび襖が開くと、将軍・綱吉自らが部屋に入ってきた。
彼の後ろには踊りの衣装をまとった一団の少年たちが見えたが、彼らは無言でグロテスクに動きを止めていた(<どういう状況?)

踊りの衣装を身にまとい従来よりも女性的に見える綱吉は、彼を迎えた光景に対する心構えができていなかった。
彼は固唾を飲んで、そして倒れそうになるほどよろめいた。
立ち会っていた何人かは、彼の心中を察した。

ちょうど17年前、この部屋で同じような事件があったのだ。
当時討たれたのは自分の大老であった。
彼は宮中の下級議員に一撃で殺されたのだが、その下級議員は、本来将軍のものであるはずの権力を大老が握りすぎたことに不満をいだいていたと言われている。
綱吉自身の関与が囁かれていたが、証明されることはなかった。
刺客は、集まった大名たちによってその場で処刑され、動機は闇へと葬られた。

今、目の前でその一部始終が再現されているようで、綱吉は無性に不安を感じていた。
 

<つづく>


+++++++++++++++++++++++

<もりいコーナー>

ずいぶん静かな「刃傷!松之廊下」でございます😊😊。

「おぼえたかっ」も「殿中でござるっ」も ありません。


17年前に刃傷事件を起こした大老は、原文ではprime ministerとなっており、直訳は「内閣総理大臣」なのでありますが、将軍のすぐ下で行政のナンバー・ワンなら「大老」なのかな〜と。

ひろゆき氏が過去に配信で「カタナを抜いちゃいけないところでカタナを抜いて死罪になった人の無念を晴らす四十七士の話は外国人にはピンとこない」という趣旨のことを言ってた(You Tubeの切り抜きで見た)のを思うと、松之大廊下の事件に、ほかの刃傷事件を引き合いに出すのは、なかなか気が利いた構成だなーと思いました。
(あと、吉良に応戦のジェスチャがあるのも、良い)

実際に大事な行事で殺し合いはときどき(松の廊下前後も)実際にあったんだし。

そうなんです。

英語圏の人が納得する構成とはこれすなわち、現代人に通じる構成とも、さもにたり。
なんとな〜く続けてまいりましたが、コリャ有益な作業に思えてまいりました。


You can read "47RONIN" for an English sentence here.
http://books.google.co.jp/books?id=3akeXRfCoEkC&printsec=frontcover&dq=THE+47RONIN+STORY&hl=ja&sa=X&ei=m_22UIyrOI-ImQW6kIC4Cw&ved=0CDsQ6AEwAA#v=onepage&q=THE%2047RONIN%20STORY&f=false


 

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翻訳47RONIN(18)

 

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洋書「47RONIN STORY」のおおざっぱな和訳

 

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とのさま浅野公(浅野卿って言っていたのをあらためます)
ついに宿敵・吉良と対面!・・・



「花は桜木 人は武士」
でわ第18弾、どうぞ!
 

 

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伊達公が顔を真っ赤にして反論をしようとしたその刹那、座敷の引き戸が開き、奥の間から吉良公がゆっくりと現れた。

彼は待合室のグループに優越感を持って微笑みながら、おしゃれに着色されたお歯黒を見せた。
浅野公は、こうした退廃の兆候を見るたびに身震いしたものだ。
見ばえのために噛まれるナッツ(註01)は高価であり、こうした習慣はブッダや孔子の説く「倹約の教え」に反する下品極まりないものと考えていた。
彼にとって、吉良公は朝廷のすべての問題点を象徴する存在だった。
彼は堕落腐敗し、虚栄心が強く、自己中心的で、およそ武士の伝統的な理想像からはほど遠い存在だった。

挨拶の礼が交わされた後、なにかしらの兆候がないかと吉良は浅野公を鋭く見つめた。
きっとこの高慢な若者に対して効果的な侮辱ができるはずだ。
少なくとも、もう一度試してみる価値はあったし、今より良いタイミングはない。
なにしろ城内で剣を抜くことは、どんな状況でも死罪ときまっていたから、彼は自分は安全だと分かっていたのだ。
吉良が彼に近づこうとすると、浅野公は本能的に彼から背を向け、軽蔑のジェスチャーとしか受け取れない動きをした。
黒装束の式部は驚きで足を止め、怒りを込めて方向転換し、代わりに伊達公に近づくのだった。

この無礼な行為が最後の一撃となり、吉良は怒りに身を震わせながら、賄賂を取りに行くのは無駄だと悟った。
彼は浅野公の不正義と無礼さに対して代価を支払ってもらおうと心に決めた。





吉良の指示が伊達公に続くあいだ、浅野公は強烈な憂鬱に襲われるのを感じていた。
自分の勝手なふるまいがまたしても吉良の機嫌を損ねたのだ。
吉良がもしいま自分を無視すれば、彼は式典の間に何をすべきかについて完全に途方に暮れるだろう。
そして恐ろしいエチケット違反を犯して家名に傷をつけることになる。
そう予感して浅野公は、一瞬パニックに陥った。
吉良はそうした問題に関して認められた専門家であり、たとえ軽蔑していても、少なくとも礼儀正しく接するべきだった。

浅野公が謝罪の言葉を考えようとしてた時、外の扉が開いた。
勅使かもしれないと思い鼓動が高まったが、入ってきたのは将軍の母親の付き人であることがわかり、安堵した。
彼はカジカワという名前の丸目でふっくらとした男性で、普段なら無視してしまうような存在だったが、この場では本当の気持ちを明かさないようにするのが賢明だと悟った。
カジカワがおずおずと部屋を見回す中、浅野公は励ますような笑顔を浮かべた。

その笑顔が功を奏し、カジカワは小走りに近づいて、やや大げさにお辞儀をしながら
「浅野様」
彼は舌足らずな言葉で言った。
「タイムスケジュールに変更があったと聞き及びました。それを将軍の母上にお伝えしたいので、詳細をお教え願えくださいませ。お手間を取らせてしまうかもしれませんが...」と、不安げな口調で締めくくった。

 

<つづく>

+++++++++++++++++++++++

<もりいコーナー>

「お歯黒の木のみ」…お歯黒は、昔の女性が歯を黒く染めた風習のこと。
ヌルデの木のことを「お歯黒の木」と言うそうで、お歯黒をするには、このお歯黒の木につく「付子」という虫こぶを使う。
ここでいう「ナッツ」はそれのことを言ってるものと思われる。


You can read "47RONIN" for an English sentence here.
http://books.google.co.jp/books?id=3akeXRfCoEkC&printsec=frontcover&dq=THE+47RONIN+STORY&hl=ja&sa=X&ei=m_22UIyrOI-ImQW6kIC4Cw&ved=0CDsQ6AEwAA#v=onepage&q=THE%2047RONIN%20STORY&f=false


 

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